(Sanctity Of Life、生命の尊厳)と(Quality Of Life、生活の質)はよく引き合いに出される対立概念です。
安楽死の是非や、トリアージの是非を語る際に、必ず突き当たってしまう、倫理上の問題です。
治療家として、尊重すべき優先順位は?果たして明確に決断できるものなのか?
鍼灸師の身近にあると思われることに目を向けると、この二つの狭間で揺れ動く倫理的問題があります。
今日は、ED治療の問題で、酒の席でしたが議論となりました。
患者が、ED治療をしたいと希望した場合に、これを引き受けるかどうかというところが論点でした。
私は、基本的にはED治療を無理やり行うことには、反対の立場です。
勿論、それはその患者の実態にもよるのですが。
私と反対の立場のご仁がおっしゃった言い様は、
「そんなことを言わないで、治療してやればいいじゃないか。」
「治療するかどうかを治療家が決めるというのは、治療家の傲慢だ。」
という感じでした。
それは確かに、一理あります。
生命の質と考えてみれば、
「男としての面目躍如を果たした」
というような、満足感は得られるわけで、これで短い人生になったとしても本望だろうという考え方もあります。
しかし、生命の尊厳を考えた場合はどうでしょう?
素問の上古天真論に、
「男不過盡八八.女不過盡七七.而天地之精氣皆竭矣.」
という、記述があるのはご存知でしょう。(鍼灸師以外は知らないですね。)
残念ながら、人間には、天地から受けた精気の尽きる時が来るのです。
その限界は「男は8×8=64歳、女は7×7=49歳」
というのが、ここに書いてある年齢的な限界です。
この具体的な年齢はともかく、ある一定の年齢で、生殖能力は無くなるという、自然の摂理を古代の人々が意識していたということです。
話は戻って、ED治療を鍼灸師が行うべきか?
治療することで、不養生(年齢不相応な性交渉)をすることがわかっていて治療することは、善なのか?
不養生を勧めて、生活の質を高める行為と言えるのか?
いつまでも若くいたい気持ちとは裏腹に、人間という生物にも、老化と死が運命付けされているのです。
素問に長々と書いてあることの本質は、上手に年齢を重ねる方法ではないですか?(これも鍼灸師にしかわからないか…。)
自然の流れを感じ取って、それに寄り添って生きる姿こそ、伝統医学の方向性と私は思っています。
アンチエイジングなどという、自然の流れに逆らうことを積極的に進めることは、正義でしょうか?
本来、持って生まれた天寿を全うさせるのが、我々の仕事であるというのが、現在の私の見解です。