シーボルト、ほねつぎの前に立つ瀬なし!
多紀元簡(1754—1810)『時還読我書』(国立国会図書館蔵)より
この時代、ほねつぎはハリも行ったようです。
文政9年長崎出島オランダ商館長ステュレルがシーボルトらを従えて江戸参府をした帰途、
オランダ商館長ステュレルが箱根の関所で足首を捻挫。
シーボルトが服薬や湿布をしたが一向に良くならず、
とりあえず、京都に運び京中の西洋医を招集して治療するも一向に良くならず、
困っているときに、たまたま訪ねてきた青貝屋武右衛門という骨董屋の紹介で、
大阪のほねつぎ山口満二というものを連れてきました。
ほねつぎ山口満二は
一診して、このくらいの軽い症状なら数日もあれば治ると断言しました。
しかし、お付きの人々や西洋医は「ほねつぎ風情に治せるわけがない」と馬鹿にしていました。
それもそのはず、名医として名高いシーボルトさえも治せなかったものを、そして京の都の名だたる西洋医を集めても治らなかったのですから、懐疑的になるのもわかります。
しかも格下と言えるほねつぎごときに直せてたまるかという上から目線もあったかもしれません。
しかし、箱根から京まで運ばれて何日も治らないことに業を煮やしたのでしょう。何でもいいから治して頂戴というのが患者心理というもので、オランダ商館長ステュレルが治療を望んだので治療することとなりました。
それではこのときの治療法は如何だったのか?
山口満二は、委中の刺針か刺絡を行ったのでした。
委中とは、ひざの裏側の中心付近のツボです。
この当時、
それはやばいんじゃね?By西洋医
それはやばいんじゃね?By東洋医
だったかもしれません。
ここで聡明な方ならお気づきと思います。
そもそもぉ…これってぇ…
現代の分類では、ほねつぎの業じゃなくね?
まあ、ほねつぎと書いてあるからそれで良いか?
はり師山口満二は、
このくらいの軽い症状なら数日もあれば治ると豪語したわけですが、
結果、
その言葉通り三日で治って西洋医、東洋医を驚かせました。
ステュレル商館長は長崎へ歩いて帰っていけるまで回復したのです。
めでたしめでたし。
シーボルト、鍼術の前に立つ瀬なしのくだりおしまいです。
出典は
多紀元簡(1754—1810)『時還読我書』(国立国会図書館蔵)より、
意訳しました。
この時代は、ほねつぎとかはり師とか按摩師とか、区分はなかったのですね。
とりあえず、全部ひっくるめて我が国の優れた医療技術ということでしょう。