待機児童問題の視点について!
将来の日本をどうするか?
幼児教育をどう考えるかという視点が欠けている!
つい、この間まで、待機児童問題がニュースの中心だったことは、記憶に新しいことでしょう。
マスコミも連日伝え、大変にぎやかな議論がテレビでもなされていました。
都市部においては、この問題は大変深刻であり、今も解決されずにいる地域が多いようです。
国もこのための予算づけを盛り込んでおり、世論の盛り上がりが行政を動かしつつある様子ではあります。
いろんなことを議論する人々の論点を見ていると、預ける側の保護者対行政という、わかりやすい対立構造をクローズアップする形が多いです。
実は、このわかりやすい対立構造こそ、勧善懲悪の雰囲気を作り出し、行政の対応のまずさという結論に結びつけるのに便利な手法なのです。
私は、この簡単な対立構造でこの問題を語ることに少々違和感を感じています。
それは、直接、恩恵を受けるべきは、子供たち自身である!という視点が置き去りになっていないか?ということです。
教育は、国の100年を方向付ける重要な問題です。
特に、幼児教育は、神経発達という面で見ると、一生のうちで最も可塑性の高い時期です。
成人までの身体発達の特徴をグラフ化した、スキャモンの発育曲線を見ても、神経発達が幼児期に急速な発達を表しているのがわかるでしょう。
また、「三つ子の魂、百まで」という言葉にある通り、幼児期の体験が将来にわたって強い影響を与えることは、古くから知られていることなのです。
待機児童問題の、「預ける場所がないから、働きに出られない」という視点は、労働の問題であり、あくまで大人の事情です。
本来語られるべきなのは、幼児期の子供たちの教育の在り方をどうするか?であり、将来の日本をどうしていきたいかという重要な視点をずらした議論は、主人公抜きで周囲が騒いでいる感があります。
いわば、本質を欠いている議論と言えないでしょうか?
保育所と幼稚園が、行政の都合で2つの省にまたがって存在し、その利権構造から抜本的な見直しができないのは、私から見ると行政と立法の怠慢と見えてしまいます。
幼保一体化の議論も過去にはありましたが、幼児教育という一番重要な視点を見失っていなかったでしょうか?
幼児期の教育の意義を考えると、労働問題に完結してしまうような結論の出し方をしてしまっては、また付け焼き刃の対応に終わってしまうように感じています。
物言わぬ子供たちのことを本当に考えた対策こそ、国の100年を考える重要な視点ではないでしょうか?
本当の意味の大人の対応というのは、こういうことを考えて抜本的な配慮を施すことだと、私は思うのです。